思巡橋(めぐらせばし)に咲く
作 : 揚巻
(♂1:♀1)
若旦那(♂):
女将(♀):
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<声劇メモ>
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宵時、川端にかかった朱塗りの橋を男たちが渡っていく。
商人もいれば浪人もいる、職人もいる。
男たちは一様に陽気だ。足取りも軽く、橋向こうの大門をくぐっていく。
男たちが歩を早める橋の上、立ち止まったまま動かぬ人影がある。
整った身形の若い男だ。男はじっと真黒な川の流れを眺めている。
そしてその男を見つめる女が一人――
若旦那M:春は、色を帯びる季節だ。木々や花、人々の装いだけでなく、
路傍(ろぼう)の石ですら色味を纏(まと)うような…
川沿いの桜は満開。白い花びらが落ちては流れ、闇へ消える
私はそれを橋の上からじっと見ている
女将M:朱塗りの長い橋もまた、川のよう
行き来する男は花びらの如く。流れは決して途切れない
石垣にかかって止まった花びらのように、橋の真ん中で川を見る男が1人
私はその人をじっと見つめている
若旦那M:桜並木と篝火(かかりび)が右の岸に並ぶ
高い塀(へい)に囲まれた左の岸には、無数の提灯(らんたん)が影を揺らしている
この思巡橋(めぐらせばし)は川端の遊郭に繋がる唯一の橋だ
女将M:男たちは橋のたもとで、行(ゆ)くか、帰るか思い巡らせる。
そして花街の女郎たちもまた、咲くか枯れるか、己の運命(さだめ)に思い巡らせる。
…それが、この橋の名「思巡橋(めぐらせばし)」の由来。
2人:そして私も…
間
女将:若旦さん
若旦那:…おや、女将
女将:こんなとこに突っ立って…また、花見かい
若旦那:ああ、…篝火(かがりび)に浮かぶ花…美しいね。一杯やりたくなるってもんだ
女将:どっちの花を想ってたのかしら?桜?それとも…菊?
若旦那:…さて、どちらかな…
女将:…そんな憂いた顔でさ…妬いちまうよ?
若旦那:女将がか?
女将:ええ
若旦那:…貴女に比べりゃ満開の桜も枯れ木同然、…妬くのは桜の方だ
女将:桜ねぇ…。相変わらずお上手。…いつもの若旦さんだ
若旦那:私はいつも通りだよ。…にしても、こんな時間になぜここに?
女将:揚屋の帰りだよ。今日は大盛況でさ、台屋だけじゃ料理が足りなくなっちまったから
ご主人に頼まれて、店の料理を運んだってわけ。おかげでだいぶ儲かったわ、ふふふ
若旦那:じゃあ店は終(しま)いか、残念だ
女将:あら、来る気もないのにそんなこと言うんだから、それでなくても最近寄ってくれないのに
若旦那:なに、いろいろと気忙(きぜわ)しいもんでね
女将:こんなとこでぼんやりする暇はあるくせに
若旦那:(※笑う)
女将:若旦さんの店、いつも繁盛してるからねえ
若旦那:女将の店もだろう
女将:小料理屋の稼ぎなんざ、たかがしれてるよ
若旦那:大口の馴染みも多いと聞いたが
女将:…さては大旦那さんね
若旦那:いつ行っても邪魔が入るとぼやいていたよ
女将:まあ、直に言ってくれりゃあいいのに。…大旦那さん、息災かい?
若旦那:…ああ。今は上方(かみがた)にいるよ
女将:反物の仕入れ?
若旦那:…いや、別件だ
女将:わざわざ上方までねえ…人に任せられない性分だもんね、大旦那さん
若旦那:そして不肖の息子は、花街通いに明け暮れる…というわけだ。
父上が目を瞑(つむ)っているのをいいことにね
女将:呉服屋の跡取り息子なんだから、好きなことすりゃいいのさ
若旦那:いいってことはないだろう
女将:…だったら、お帰りよ
若旦那:…
女将:ふふ、それができたら苦労しないわね
若旦那:意地が悪いな…
女将:知ってるくせに
若旦那、女将をじっと見つめる。
女将:どうしたんだい?
若旦那:女将を見ているだけだ。夜桜を背にした別嬪(べっぴん)をね
女将:どんな風にみえるのかしら?教えて
若旦那:…白磁(はくじ)のような肌、唇は椿のように紅い、結い上げた黒髪は艶(つや)やかだ
女将:(※微笑む)
若旦那:そしてその眼だ。濡れたように光って、いつも私の心を見透かすような…
女将:見透かしてなんていないよ。若旦さんが正直なだけさ
若旦那:不思議な女(ひと)だね、貴女は。
…いくつも噂はあれど、誰も貴女の素性を知らない
女将:どんな噂?
若旦那:私が知ってる限りでは…
御家断絶(おいえだんぜつ)になった大名の娘…
男と駆け落ちした商家(しょうか)の奥方…はたまた年季明けの花魁…
女将:若旦さんは、どれを信じるの?
間
若旦那:…女将は女将だ
女将:へえ、知りたくないの?
若旦那:知りたくないわけじゃあない、が、桜がなぜ美しいのか知らずとも
美しいものは美しい。知りたいというより…
女将:なあに?
若旦那、女将の耳に口を寄せる
若旦那:…欲しいね
女将:私が欲しい?
若旦那:ああ
女将:…若旦さんが欲しいのは千羽屋の菊…でしょ?
若旦那:…
女将:ふふ、すぐ顔に出る
若旦那:敵わないね
女将:ねえ、私が菊だったら、知りたいと思ってくれる?
若旦那:…女将
女将:若旦さんのその顔…嫌いじゃないわ
…ご覧よ、夜鷹が見てる。このまま帰ればあいつらにさらわれちまうよ?
若旦那:じゃあ女将がさらってくれ
女将:(笑う)
若旦那:女将なら本望だよ
女将:こんな姥桜(うばざくら)に?
若旦那:姥桜か。それにしちゃあ美しいな
女将:…若い男を根元に埋めるのさ。それから一晩かけて…血肉も魂も…何もかも吸い上げるの
若旦那:それが貴女の秘密かい?
女将:そうだと言ったら、若旦さん…くれる?
若旦那:いつでも
間
女将:口ばっかり。…もうお行き、玉菊、きっと待ってるよ。
他所の男に摘まれちまっても知らないから。
…ま、廓(くるわ)で三本指に入る花魁だ。手折(たお)れるのは若旦さんくらいか
若旦那:…女将
女将:…なんだい
若旦那:…寄ってっちゃだめか?
女将:…だめ
若旦那:…そうか
女将:玉菊に会いたくないの?
若旦那:そうじゃない…
女将:だろうね、会いたくてたまらないって顔、してるもの
若旦那:まいったな
女将:思巡橋(めぐらせばし)で行くか戻るか悩む男はお断り。
うちにくるんなら、ここは通らずまっすぐ来とくれ、…待ってるから
若旦那:ああ、わかった
女将:一夜の逢瀬、楽しんで…
若旦那M:女将は、私の肩を花街側へそっと押した。私はそのまま花街の門をくぐる。
向かうは「千羽屋」。玉菊がいる妓楼(ぎろう)だ。
玉菊…私の全て。愛しい女(ひと)。どれほど思い巡らせても、この足は玉菊へと向かう。
この道の先が袋小路になっているとわかっていても、結局私は…
若旦那:…それができたら苦労しないわね…か…
間
ふた月後、女将の小料理屋。店の潜り戸をくぐる若旦那
若旦那:ごめんよ
女将:…あら、若旦さん
店には若い男がいる。
若旦那:…あいてるかい?
女将:どうぞ、…あ、一平、釣りは取っといてね、有難う
若い男は女将と若旦那に一礼すると、店から出ていく
若旦那:店の前まで、女将の楽しそうな声が聞こえていたよ
…さて、私は邪魔だったかな?
女将:一平のこと?
若旦那:…女将の情夫(いろ)かい?
女将:やあだ、若旦さんったら
若旦那:いやあ、さすが女将だ、小僧も手の内か
女将:そんなんじゃないよ
若旦那:その割には、頬が染まっているようだがね
女将:ふうん…妬いてるの?
若旦那:ああ、妬けるね
女将:思ってもいないこと、いけしゃあしゃあと言うんだから
若旦那:見た感じ、誠実で真っ直ぐな男だ
女将:男前でしょ?
若旦那:嬉しそうに言うね
女将:ふふふ
若旦那:あんな若造に女将をとられちまうなんてな
しかし、なるほど…そうか
…女将が男なら、新造(しんぞ)好きか
女将:若旦那さん
若旦那:冗談だよ。で、どこの手代(てだい)だい?
女将:千羽屋の男衆(おとこしゅう)
若旦那:千羽屋…
女将:料理、買いに来たんだよ。
大方、どこぞのお大尽(だいじん)が上がったんじゃない?ぞろぞろ引き連れてさぁ
若旦那:そうか…
女将:おかげですっからかん
若旦那:終いか?
女将:イサキの煮つけならあるんだけど
若旦那:いいね、好物だ
女将:でも、意地悪なお客しかいないし、しめちゃおうかしら
若旦那:女将、悪かった。この通りだ
間
女将:ふふ、許してあげる
若旦那:ありがとう
女将:にしても一平、驚いてたわね。
若旦さんが千羽屋の上客(じょうきゃく)だから、すっかり慌てて
若旦那:…そうだね
女将:…思い出した?
若旦那:ん?…なにを
女将:玉菊
若旦那:はは…
女将:帰りたくなったかい?
若旦那:千羽屋にはいかないよ
女将:千羽屋に、なんて言ってないわよ?
若旦那:まいった
女将:今更帰るなんて許しゃしないから…ここにきた以上、今夜の旦那は私のもの
若旦那:…帰らないよ。私はまっすぐ、女将に会いにきたんだからね
女将:あら嬉しい。逃がさないように、閂(かんぬき)かけなきゃ
若旦那:ふむ…女将を独りじめか…悪くないね
女将:一晩、高いわよ…?若旦さん、すっからかんになるかも
若旦那:一文無しじゃ相手にしてもらえないかな、銭あっての若旦那だからね
女将:どうしようかしら
若旦那:女将さん、文無しの小僧にイサキを恵んでくださいませ
女将:(笑う)…いいわよ、暖簾(のれん)しまってくるわ、座敷に上がってて
若旦那:ああ、店にあるだけの酒を出してくれ。勿論、イサキもね
女将:まあ、豪気な一文なしだこと
間
座敷で呑む二人、どちらもほろ酔いになっている
外は雨が降り出している
女将:ああ…酔っちゃった
若旦那:女将は強いな、大事ないか
女将:平気、酒屋から樽で運ばせてもいいくらいだよ
若旦那:私が潰れそうだ
女将:若旦さんが潰れたら、どうしようかねえ
若旦那:…魂まで吸い取ってくれるんだろう?
女将:なんだい、それ
若旦那:いつぞやの思巡橋(めぐらせばし)でそう言ったじゃないか
若い男を根元に埋めて、血肉も魂も吸い上げる…ってさ
女将:(思い出すように)…、…ああ!やだね、あれは桜の時分だろ
若旦那:残念だな。心待ちにしていたんだが
女将:心待ちにしてる男ならふたつきも放っておかないよ、いけず
若旦那:(※笑う)
女将:なにさ、埋められたかったの?
若旦那:ああ、女将の下にね
女将:足蹴(あしげ)にしちまうよ?
若旦那:その足で弄(まさぐ)られるなら悪い気はしないな
女将:もう…若旦さんったら。…はい、一献(いっこん)
若旦那:ありがとう(※酒を呑む)、…いい夜だ
女将:そうだね
若旦那:酌をしよう、さあ…
女将:若旦さんのお酌なんて贅沢だねえ
若旦那:…礼だよ
女将:なんの?
若旦那:女将の情に
女将:情?
若旦那:私が来るの、わかっていたのだろう?
女将:わかるわけないだろ、変な若旦さん
若旦那:いや、女将はわかっていた
女将:…どうして?私に千里眼があるとでも?
若旦那:イサキの煮つけ。私が来ることを見越して、こしらえたものだ
女将:それは余りもの
若旦那:余りもんにしちゃあ煮が浅い。
魚も新鮮だ。大方、さっきの男衆に買いに走らせたんじゃないか?…一平に
女将:なんでわざわざ?
若旦那:連中に聞いたんだろ?…玉菊が月役(つきやく)で見世に出てないことを
間
若旦那:…雨、強まってきたな
女将:…
若旦那:だが、雨音を肴にするのも、悪くない
女将:…
若旦那:女将?
女将:なに
若旦那:どうした…怒ってるのか
女将:ふん
若旦那:何か言いたいことがあるなら言ってくれ
女将:…
若旦那:なあ…
女将:すっとこどっこいのこんこんちき!
若旦那:…え
女将:言いたいこと言っていいんだろ?女心もわからない唐変木(とうへんぼく)!
若旦那:…女将
女将:礼なんて言われたら、立つ瀬がないだろ…
そういうのはね、知らんふりで涼しい顔してりゃいいんだよ…
若旦那:そうだな…すまない
間
女将:私はね、若旦さんにいて欲しかったの…ただそれだけ
若旦那:優しいね、女将は
女将:そんなんじゃない
若旦那:じゃあどんな…
女将:…いちいち言わせんじゃないよ、野暮なんだから
若旦那:女将、機嫌を直しておくれ
女将:…
若旦那:…どうしたら許してくれる?なんでもしよう
女将:なんでも?
若旦那:ああ、なんでも
間
女将:…私のものになって
若旦那:いいとも、…私を女将のものにしてくれ
女将:嘘ばっかり。思ってないことばかり言って。若旦さんも…私も…
間
若旦那:…私は駄目だ…駄目なんだ…
会えないとわかっていても、先はないとわかっていても、
この足は思巡橋(めぐらせばし)へ向かう。そして橋の真ん中で動かなくなるんだ。
それでも最後は橋を渡っていく、毎夜毎夜…
女将:…
若旦那:女将…私を埋めてくれ
私はいつも考えている。いっそ誰かが、動けないようにしてくれれば…
そんなことばかり願ってる。どれだけ暴れても逃げられないように…
女将:あははは…!私が埋めたところで、若旦さんは意地になって逃げだすよ。
いっそ足を切り落としてあげようか?ああ…それでも駄目ね、いくら足が無くても、
若旦さんは両手で這いずってあの橋を渡るのさ、玉菊欲しさにね…!
若旦那:(※酒を呑む)…ああ…きっと、そうだろう…
どうしたら…あの淋しげな笑みを見ずに済むのか…楽に…なるのか
女将:楽になることなんて…ないんだよ…
若旦那:畜生…(※酒を呑む)
女将:若旦さん、もう…
若旦那:まだだ…(※更に呑もうとする)
女将:若旦さん!
間
女将:無茶な呑み方して…体壊しちまうだろ…
若旦那:…壊れてしまえばいい
女将:玉菊に会えず仕舞いで荒れてる…ってだけじゃあなさそうね
若旦那:…
女将:何があったんだい?話してごらんよ
若旦那:…もうすぐ、父上が帰ってくる。
父上は上方に嫁を探しに行ったんだ…手ぶらで帰ってくることはあるまい…
女将:若旦さん…
若旦那:夢が…覚めてしまう…玉菊…
女将:貴方は本当に馬鹿…
若旦那:ああ、私は馬鹿だ…すまない
女将:若旦さん…
若旦那:女将、私を抱いてくれ
女将M:そう言うと、若旦さんは私の肩に顔を埋めた。まるで子供のように。
私はそっと抱きしめた。若旦さんの背中は華奢で、ずっとかすかに震えていた。
宵越しの銭はもたないのと同じように、男も女も、宵越しの夢を見ない。
夢は溺れるもの。現(うつつ)を忘れるもの。そして、覚めるもの。
私たちは寄り添ったまま、夢を見ずに朝を迎えた
若旦那:女将…
女将:なあに
若旦那:私は…どうしたらいい
間
女将:…もうおかえり、若旦さん
若旦那:女将…そうか…
女将M:雨はいつの間にか止んでいた。朝霧が立ち込める中を、若旦さんが歩いていく。
さっきまで寄り添っていた羽織がゆっくり遠のき、霧の中に消えていった。
それを見ていたら、なんとなしに、もう若旦さんには会えないような気がしていた。
女将:若旦さん…(※咳き込む)
戸口に手をかけ、咳き込み続ける女将。
間
若旦那M:長雨の季節は終わり、夏も慌ただしく過ぎていった。
来年の春、私は上方から嫁を娶(めと)ることになり、その準備に明け暮れていたからだ。
思巡橋(めぐらせばし)を渡る足は日々重くなる。しかしそれをやめることもできなかった。
そして、菊見(きくみ)の頃が訪れたある日、女将が倒れたと耳にした。
私は、急ぎ店へ向かった。女将と最後に会ってから、みつき目のことだった
間
若旦那:…女将はいるかい!?
若旦那M:小料理屋は閑散としていた。女中に促され、店の奥へと通される。
女将は店の奥にある寝間にいた。襖(ふすま)を開けようとすると男の手が私を制した。
以前ここで見た男、一平だった。一平はそのまま、するりと中へ入り、襖を閉めた。
私は呆気にとられ、その場に立ちすくんでいた。
やがて、襖の向こうから女将の弱々しい声が聞こえてきた
女将:若旦さん…?来てくれたんだね、嬉しい…
若旦那:中へ入っても?
女将:…御免よ、このままで…
若旦那:なぜ…
女将:ひどい恰好だから…こんな姿、若旦さんには見せられないよ
若旦那:(小声で)一平には見せられるのに、か…
女将:…若旦さん?
若旦那:いや、…なんでもない
女将:ご無沙汰だね…
若旦那:すまない
女将:黙って死んじまおうかと思ってた
若旦那:女将!死ぬなんて…、死ぬなんて言わないでくれ…
女将:…御免よ
若旦那:いや、謝るのは私の方だ。…もっと早く来るべきだった…
女将:いいえ、来てくれて有難う
若旦那:具合は…
女将:喘息(ぜんそく)さ。最近、急に涼しくなったからね。
昔は秋口になるとよく患ってたんだよ。少し休めばじきに良くなるから
若旦那:…ちゃんと、食えているのか
女将:食べてるよ、大丈夫
若旦那:なら、いいんだ
女将:(※軽く咳き込む)
若旦那:大丈夫かい…
女将:ええ。…心配してくれた?
若旦那:…ああ。今だって案じている
女将:…ありがとう…それと、おめでとうございます
若旦那:え?
女将:縁談、決まったんだろう?紺屋の娘さんらしいじゃないか。
呉服屋の若旦那さんにはぴったりだ
若旦那:ああ、…ありがとう
女将:…
若旦那:…
女将:また浮かない顔して…ここは思巡橋(めぐらせばし)じゃないよ?
若旦那:私の顏は見えないだろう
女将:見えなくても、見えるよ…
若旦那:この顔が好きらしいからね
女将:若旦さんったら…、…っ(※強めに咳き込む)
若旦那:女将…!…大事ないか!
女将:だいじょうぶ…
若旦那:頼む!中に入れてくれ!
女将:お願い…!このままで…
若旦那:女将…!すまない!!
若旦那M:私は襖をあけた。そこには布団の上で咳き込む女将と、背中をさする一平の姿があった。
細いながらもしなやかだった女将の躰は、柳のようにか細くなっていた。
襖を開けた私に一平が駆け寄ろうと立ち上がった
女将:一平…いいの、暫く…若旦さんとふたりにしてくれる…?
間
一平はそっと寝間から出て行く
若旦那:女将…
女将:そんな顔しないどくれ…若旦さんにはこんな姿、見られたくなかった
若旦那:一平にはいいのか
女将:一平はね…役目で来てるの…
若旦那:女将…そうか…
女将:ふふ…若旦さんがここにはじめて来た日のこと、思い出したわ
若旦那:え?
女将:大旦那さんに連れられて、若旦さん、店の中を物珍しそうに見てたわ。
そしてこう言ったの。「こちらの店はご亭主がされてるんですか」って
若旦那:はは…
女将:「亭主はいないけど、旦那がいますわ」って答えたら、目を丸くして
若旦那:父上が女将になぜ謝るのか、わからなかった
女将:ふふふ
若旦那:あの後花街へ連れていかれた。これから先、商売人として商いをしていく上で
お前はまだ世情(せじょう)を知らなすぎる、…ここで学べ…とね
女将:そして、玉菊に出会った
若旦那:…ずっと夢の中にいるようだ
女将:…私も、ずっと夢を見続けているの
若旦那:女将も?
女将:…ええ、ずっと
若旦那:どんな夢か教えてくれないか
女将:…
若旦那:…野暮だ、と言われるのはわかっている。
だが、私は知りたい。私は…貴女のことを何も知らないんだ。
私は何も知らなすぎる…女将のことも、玉菊のことも…
女将:若旦さん、それでいいんだよ
あの橋は、現(うつつ)と夢を繋ぐ橋。夢は、現になりゃしない。
だったら何も知らぬまま、朝まで夢を見ればいいのさ…誰も責めたりしないよ
若旦那:それでも私は…私は…何とかできないかと…そればかり考えている
女将:玉菊を妾にでもしたいのかい?
若旦那:…
女将:…大旦那さんは厳しいお人。
たとえ妾であっても、女郎を身請けするなんざ許しゃしない。逆らえば勘当だ…
「若旦那」という間だけ許された夢だって、わかってるんだろう?
若旦那:女将は、なんでも知っているんだな
私がそれに逆らう度量がないこともお見通しだ。
できることなら玉菊を連れて…
女将:…足抜けなんざ、半端な気概でできるもんじゃないよ。
うまくいったところで、どうやって暮らしていくんだい…!
若旦那:ははは、玉菊を身請けすることも、攫(さら)う度胸もない意気地なしだ…!
それを知ってて私は…玉菊を買っているんだ!父の金で…!
女将:若旦さん…
若旦那:…私は…
間
女将:若旦さん、どうか、己を責めないでおくんなんし…
若旦那:女将…
女将:若旦さんの夢は、貴方だけのものじゃない。
玉菊も同じ夢をみているでありんしょう…
…決して口には出さず…許された時の中だけでも、せめて…
それが、女郎の宿命…
若旦那:女将は…いや、玉菊もそれを知っている。
知っていて、私を許しているのだね…
間
女将:若旦さん…貴方は、自分の生まれが違っていたら…って考えたことはあるかい?
若旦那:…ああ、何度も考えたよ、どこにでもいる町人や侍だったらどんなに自由だろう…とね
女将:でもそれじゃあ、一年働いて、玉菊を一晩買うのがやっとさ
若旦那:…
女将:皮肉なもんさね、貴方がもし町人や侍だったら、
玉菊の顔を拝むことすらできなかったろう
若旦那:皮肉だな…
女将:貴方は、呉服屋の若旦那だったから玉菊に出会えた
若旦那:…
女将:私もね、考えたりするんだよ。
手練手管(てれんてくだ)も知らない、家を継ぐ必要もない、
どこぞの町娘だったらって。でも、私も…女将だったから…出会えた
若旦那:女将の…旦那のことかい?
女将:…それならもっと楽だったのに…
若旦那:え?
女将:…私らは似た者同士さ。宵越しの夢はみれない、なのに、夢をみることもやめられない…
生まれが違っていても結ばれない…
私が女将だったから、ここで出会え…(※軽く咳き込む)
若旦那:女将、少し休もう…横になるかい?
女将:もう暫く…お願い…
若旦那:分かった
間
女将:三月(みつき)前、貴方とここで過ごした時、あの時は言えなかったけどね…
玉菊もわかっていたのよ。女郎だったからあなたに出会えた。
若旦さんが【若旦那】だから逢瀬を続けられることもね。
玉菊がもし町娘だったら、大旦那さんが遠ざけていたわ。
【花魁】だから、許されたのよ…
若旦那:…
女将:一緒に朝餉(あさげ)をとって、夕暮れまで風にあたっていろんな話をして…
そんな他愛もないことが、たったそれだけのことが、私たちには手に入れられないのね…
若旦那:女将…
女将:(※咳き込む)
若旦那:女将…!
女将:若…旦…(※苦し気な咳が続く)
若旦那:横になるんだ…苦しいなら医者を…!
女将:医者はいい…若旦さんにお願いがあるの…
若旦那:…なんだ、言ってごらん
間
女将:もうここには来ないでおくれね
若旦那:え…
女将:うつるといけないから…
若旦那:喘息はうつらないよ
女将:もし別の病(やまい)だったらうつしちまうかもしれないだろ
若旦那:女将…!
女将:婚礼前の大事な体だ
若旦那:平気だ
女将:貴方にうつしでもしたら、大旦那さんに斬られちまうよ
若旦那:そんなことさせない!
女将:若旦さん…私…きっと、もう長く…
若旦那:言うな!女将は良くなる!医者を連れてくる!父上に何を言われても私が医者を…
女将:若旦さん…
若旦那:滋養をとれば達者になる…!大丈夫だ!女将は良くなる!
食べたいものがあれば言ってくれ、欲しいものだっていい。
旦那に言いづらいものがあれば私が揃える…
…だから…だから…
女将:…
若旦那:私はもっと、貴女と話がしたいんだ…頼む…そんなこと言わないでくれ…
間
女将:食べたいもの…なんでも、いいの?
若旦那:…ああ!
女将:今欲しいのはね…
若旦那:なんだい?
女将:…桜餅
若旦那:え?
女将:桜餅が、食べたい
若旦那:桜餅…
女将:春になったら馳走してくれるかい?
若旦那:…女将
女将:それまでにはしっかり治すから、ね
若旦那:…
女将:…わっちは、血肉を吸って咲き乱れる徒桜(あだざくら)…
春には万花繚乱(ばんかりょうらん)さ、ふふふふ…
若旦那:…
女将:旦那…お願いだよ
間
若旦那:…わかった。その時は菓子屋と女将の店、どっちも一晩買い取る
女将:(※笑う)豪気だねえ
若旦那:また朝まで酒を飲もう…
今度は花篝り(はなかがり)を眺めながら…長い夜を、二人で…
女将:ええ
若旦那:…女将
女将:ありがとう…春が待ち遠しい
間
若旦那M:秋の雨が降る。あれからひと月も経たずに、女将は逝ってしまった。
私は今日も、思巡橋(めぐらせばし)にやってきた。
雨に濡れた朱塗りの橋に、男がいた。私がいつも立っている場所だ。
冷たい雨が男の全身を濡らしていた。千羽屋の男衆、一平だった。
一平は傘もささず、身動き一つせず、立ちすくんだまま、じっと川を見つめている。
手には、小菊を握っていた。曇天の下、花の色がひときわ鮮やかだった。
ふいに一平が空を仰いで、ぽつりと何か呟く。
決して聞こえるはずのないその言葉が、私には聞こえたような気がした。
私は、女将と最後に会った日のことを思い出していた―
間
若旦那:…女将
女将:なあに
若旦那:貴女の名を、教えてくれ
女将:私の…
若旦那:ああ
女将:教えても、嫌がったりしない?
若旦那:嫌がるわけないだろう
女将:…約束よ。私の名は…
若旦那M:ふいに、いるはずのない女将が、赤い番傘を一平に差し掛けたように見えた。
あの時初めて見た、穏やかな優しい笑顔で…
女将:私の名は、菊乃―
若旦那M:一平の手から菊の花が滑り落ち、その手はそのまま、橋の欄干を握りしめた。
涙を堪えているのか、流れ落ちているのかわからないほど、一平の顔は雨に濡れていた。
空に向かって繰り返しその名を叫べど、強さを増した雨音に全てかき消されていく。
一平の慟哭は私にだけ届いていた。
だからこそ私は、一平の震える背に声をかけることもなく、
思巡橋(めぐらせばし)をまっすぐ渡る。
いつまでも、夢は続く。叶わぬ思いも巡っていく。
ずっと…。そう思いながら、花街の門をくぐった。
…女将、私は今生、貴女の名を呼ぶことはないだろう。だからこの歌を、貴女に…
間
若旦那M:― 菊の花 思い巡らせ 涙橋 ―
著作権は揚巻にあります。
ネット上での上演に関しましては規約を守った上でご自由にお使いください。