片靴屋-捨ててしまった靴
作:揚巻
片靴屋 : ♂/♀
女性 : ♀
片靴屋 : ――― 宵の頃、店の前をひとりの女性がうろついていた。
中へ入ろうとしながらも、ふっときびすを返すけれど、
やはりまた、中へ入ろうとする。
それを数回繰り返した後、ようやく店の中へと入ってきた。
片靴屋 : いらっしゃいませ。
女性 : …。
片靴屋 : 中へ入るのを、随分迷われていたようですね。
女性 : …はい。
片靴屋 : どんな靴をお探しですか?
女性 : …
片靴屋 : …
女性 : きっと、なくしたと思うんです。
片靴屋 : ええ。
女性 : だから、探して頂きたいんです。
片靴屋 : ええ、どんな靴ですか?
女性 : サンダルなんです。よく、海に履いていってました。
合皮の、黒光りするサンダル。
片靴屋 : ふむ…
女性 : …
片靴屋 : …
女性 : あの…
片靴屋 : はい。
女性 : 探しては、下さらないのですか?
片靴屋 : う~ん、そうしたいのは山々なんですが、
女性 : はい。
片靴屋 : そのサンダル、捨ててしまわれたのでは?
女性 : …
片靴屋 : ああ、やっぱりそうなんですね。気配がしないのですよ、それの。
だからおかしいなぁと思いまして。
女性 : やっぱり、私は捨ててしまったのでしょうか。
片靴屋 : …と、思われますが。
女性 : 記憶の自信がないんです。あのサンダルを、捨ててしまったのか、どうか。
なくしたんじゃないかと思って、だから…
片靴屋 : お客様。
女性 : …
片靴屋 : ご存じのはずですよ。
女性 : …はい。
片靴屋 : だから、ここへ入るのをためらわれたのでしょう?
女性 : …きっと、そうなんだと思います。
片靴屋 : ええ。
女性 : …
片靴屋 : ここは、なくした片靴を置いているだけで、
捨ててしまった靴は置いていないのです。
女性 : …
片靴屋 : 自業自得、なんですよ。
女性 : …はい。そうなんだと思います
片靴屋 : …
女性 : …
片靴屋 : …さて、よいしょ。
女性 : …
片靴屋 : しかし、人生こういうこともあるのですよ。
女性 : …!…それ…!
片靴屋 : これはね、あなたのサンダルですよ。合皮で、黒光りしていて、
そして懐かしい海の匂いがしますね。
女性 : 私は…そのサンダルを捨てたんです。だから私のではありません。
そのサンダルを捨てたように、あの人への想いも捨てたんです…。
片靴屋 : どういう事情があったかはわかりません。
しかしこれは、あなたの想いでできているのですよ。
女性 : 私の、想い?
片靴屋 : そうです。あなたは、ここへ来た時、自分の気持ちをご存じなかった。
だから、見つからなかったのです。しかし、あなたはご自分を認めたでしょう。
捨ててしまった自分に。そして、心から求める自分に。
だから、これはここに存在しているのです。
女性 : それじゃあ、…もう片方は?
片靴屋 : それは存じません。ここは『片靴屋』。両方の靴は置いていないのです。
しかし、ここにひとつはある。となると、あとの片方は、
あなたが、自分の足で探さなければならないのです。
一生見つからないかもしれない。一生探し続けなければならない。
それでもいいのなら、あなたはこのサンダルを持っていくべきなのです。
女性 : …はい。
片靴屋 : さぁ、これをお持ちなさい。大事にね。
そして、いつかあなたが両靴で歩けることを願っておりますよ。
女性 : はい。自分の気持ちを認めて、探します。片方のサンダルと、あの人を。
どんなに時間がかかっても。
片靴屋 : ――― 潮の香りがする黒いサンダルを胸に抱えて、女性は店を後にした。
薄宵のほのかな色に、奇跡の予感を残しながら…。
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